MSP21開催
M.S.P 2021
2021.8.10 tue ~
2021.8.16 mon
in 天川村
2021.8.10 tue ~
2021.8.16 mon
in 天川村
大自然の中にある築150年の古民家を改装した劇場施設にて 開催される芸術祭です。
NEWS
M.S.Pとは
M.S.P(M.M.S.T SUMMER PROGRAM)は、第一線で勢力的に活躍されている様々な作り手をアトリエに招聘し、実際に作品を創作して頂きながら、施設の魅力とその可能性を発見をしていく、創作プログラムです。2008年より毎夏実施しており、これまで下記の作家がアトリエに滞在。魅力的な作品を生み出してきました。
2008 大久保吉倫明/ Noriaki Okubo (俳優練塾/京都)
2009 田中 秀彦/Hidehiko Tanaka (iroNic ediHt DESIGN ORCHESTRA/大阪)
2010 山田 恵理香/Erika Yamada (空間再生事業 劇団GIGA/福岡)
2011 中屋敷 法仁/Norihito Nakayashiki (柿喰う客/東京)
2012 黒澤 世莉/Seri Kurosawa (時間堂/東京)
2013 百瀬 友秀/Tomohide Momose (M.M.S.T/福岡)
2014 金 世一/Seil Kim (世 ami/韓国)
2015 広田 淳一/Junichi Hirota (アマヤドリ/東京)
2016 加藤 里志/Satoshi Kato (サクソフォン奏者・音楽家/東京)
2017 田辺 剛/Tsuyoshi Tanabe(下鴨車窓/京都)
2018 鈴木 アツト/Atsuto Suzuki(劇団印象/東京)
2019 山口 茜/Akane Yamaguchi(サファリ・P/京都)
INFORMATION
<創作作品>
『異邦人』
アルベール・カミュ(1913-1960)
アルジェリア生れ。フランス人入植者の父が幼時に戦死、不自由な子供時代を送る。高等中学(リセ)の師の影響で文学に目覚める。アルジェ大学卒業後、新聞記者となり、第2次大戦時は反戦記事を書き活躍。またアマチュア劇団の活動に情熱を注ぐ。1942年『異邦人』が絶賛され、『ペスト』『カリギュラ』等で地位を固めるが、1951年『反抗的人間』を巡りサルトルと論争し、次第に孤立。以後、持病の肺病と闘いつつ、『転落』等を発表。1957年ノーベル文学賞受賞。1960年1月パリ近郊において交通事故で死亡。
<参加作家>
石田聖也/Seiya Ishida
(劇作家、演出家)
2013年、演劇ユニットそめごころ旗揚げ。以後、ほとんどの作品で演出を務める。
自身の戯曲の上演や既成戯曲の立ち上げのみならず、観客の記憶をその場で上演するプレイバックシアター「ききがたり」、俳優の記憶を再現・再構築する「ココ、ドコカ、目覚める風景。」、劇場空間を野外に見立てた仮想野外劇「銀河鉄道の夜」、ビデオインスタレーション×演劇をコンセプトに創作された「スクリーン」など、創作方法やスタイルを作品ごとに変化させる。また、2020年には研究室『A cross.lab』を発足、「街と劇場の未来学」をテーマに研究を開始。
演劇ユニットそめごころ
演劇ユニットそめごころ
M.M.S.T ART Lab / アトリエ
M.M.S.Tが創作の為に所有するアトリエ施設です。
奈良県の天川村にある築150年の古民家を、「芸術家が集中して創作する為の空間」
というコンセプトに沿って手を加えた特殊な空間です。
奈良県天川村
アトリエのある天川村は、“「天の国」「木の国」「川の国」”のキャッチフレーズをもつ、奈良県吉野郡に位置する村で、
修験の山「大峯山」と、「天河大弁財天社」が有名です。
「異邦人」クリエーションに向けて
石田 聖也
『私が異邦人である世界で生きるということについて』
数年前、アルバイト先に新人として「彼」はやってきた。「彼」は私の二つくらい年上だった。仕事中はほとんど個人での作業となるため、私と彼が言葉を交わすことはほとんどなかったし、特別仲が良いということもなかった。そんなある日、上司から私の元に電話がかかってきた。「彼」が営業先でトラブルを起こした、代わりに行って欲しい、とのこと。とりあえず、「彼」に事情を聞くと、相手の態度が気に食わずついカッとなり突っかかってしまったらしい。「彼」の話しでは、これまで同じようなことが度々あり、何度も仕事がダメになってきているのだそうだ。「彼」はひどく落ち込んでいて、何度も何度も私に謝ってきた。「私も同じようなことで我慢することもあるし、気持ちはわかりますよ」とだけ言葉を交わし、その場は別れた。その後、上司に電話をかけると電話越しに苛立った声が聴こえてきた。
「彼はダメやね、問題がある。」
その日、「彼」はバイトを辞めた。 別に私は「彼」を擁護する気なんてなかった。けれど「彼」がダメで、問題があるというのであれば、私なんてもっとクソでどうしようもなくて、問題だらけだと叫びたかった。この感情を私は何と呼ぼう。私はこの世界の至るところで「彼」を見つけるようになってしまった。他者の中だけではなく私の中にも「彼」は確かに存在していて、「彼」は私と他者の境界線を曖昧にしていった。
異邦人として、或いはよそ者として暮らすには居心地の悪い世界で私たちは生きている。誰かが誰かを理解しようとする時、手っ取り早い方法は【言葉】や【行為】、【事実】からその人物像を推測することだ。しかしそこには、常に何らかの隔たりがあり、やがてそれは印象というひどく曖昧なモノに化ける。実際に会ったことも無い人間に対してですら、印象という曖昧なモノで私たちはいとも簡単に「なんか好き」「なんとなく嫌い」になって、次々とレッテルを貼ることができる。芸能人や政治家の失言やスキャンダル、誰かの噂、SNSのハッシュタグや炎上などに無自覚に加速し加担していく現代社会の中で、自身の加害者性や暴力性に気がつくことは可能だろうか。或いは、「わからない」ということを肯定することはできないだろうか。理解できないナニカと出会ったとき、「〜に違いない」「きっと〜のはずだ」と無理矢理自分の文脈で自分が納得できるように歪めた瞬間、喪失したのは他者と己の対話の意思だ。
アルベール・カミュの小説「異邦人」に登場するムルソーも、私にとってただの他人ではなかった。「彼」と他者の間にある隔たりは、やがて自身の運命を決定的に変えることとなる。勿論私は「彼」を擁護する意思を持ち合わせておらず、死刑制度廃止論者というわけでもない。何人も、何人といえども、「彼」のことを泣く権利はない。ただこの不条理に直面し、小説という言葉のロジックの世界を離れ、演劇という形式、或いは現象によってしか踏み込めない領域があるとするならば、追求すべきは観客体験であると感じている。観客は劇場という空間の中において、多かれ少なかれ何らかの役割を担っている。一般的に舞台と客席は物理的に区切られ、その間には見えない壁(第四の壁)が存在し、観客は舞台で起こることを覗き見ているという状態がお約束(前提条件)であると思われがちだが、本当のところ観客と演者の【見る】【見られる】という関係は容易に逆転し得るのだ。本作の上演では、様々な隔たりによって不十分な形で終結したアラビア人殺害事件の裁判を演劇によってリテイクし、集団・集合体としての生身の観客に陪審員或いは傍聴者としての役割を与える。覗き見を自覚的静観へと変化させ、自身の人生の一部となり得る実感的体験や決断として定着させることを目指す。
※異邦人とは
1. 外国人。異国人。
2. 自分たちは神に選ばれたすぐれた民族であるという誇りから、ユダヤ人が非ユダヤ教徒、特にキリスト教徒を読んだ語。
3. 見知らぬ人。別の地域、社会から来た人。旅人。エトランジェ。
※ 参考資料
映画「12人の怒れる男」