共同討議「ワークショップについて」
田中秀彦 × 相内唯史 × 百瀬友秀
M.M.S.T OFFICIAL WEBSITE
M.M.S.T NEWSLETTER
登録 停止
 
田中秀彦

田中 秀彦

コスチュームアーティスト、演出家
相内唯史

相内 唯史

劇場プロデューサー
百瀬友秀

百瀬 友秀

演出家
ワークショップの可能性
百瀬:まず「ワークショップの可能性について」ですが、ここは今回のワークショップ講師であり、演出をされる田中さんに一言いただきたいと思います。
田中:「ワークショップの可能性」っていうのには現状を客観的に捉えている自分と疑問点みたいなのがありますよね。カルチャーセンターの「体験講座」っていうのと「ワークショップ」って使われてる言葉が、そんなに変わらなくなってきてると思うんです。だから、百瀬君は受け取り側の意義みたいなものとか、そのワークショップ自体の参加者と開催者側だけじゃなくて、地域とか場所だったりの有意義性みたいなものも捉えてる。やっぱり、最終的に劇場もそうだけど文化的なものっていうのは創ってる人間が自分の住んでる世界とか社会とか地域とか、自分の立ってる地面半径どれくらいに、どういう影響を持てるのかっていうのがすごく大きいと思ってるんです。だから離れた国同士の劇団の交流があったりとか、それは意義深いと思うんですけど、だけどその、じゃあ地域で何ができてるかというと、なんか割と文字通りの体験講座というような感じで「どうだった?」って聞くと「面白かったよ」みたいな。「ああ面白かったよ」「ああ良かったよ」「あの人も来ててさあ」みたいな感じで。「良かった」って、レンタルビデオじゃないんだから。
百瀬:(笑)そうですねえ。
田中:なんだか受け取り側も発信側も目的が逆になってるところはすごく感じます。
百瀬:そこは劇場プロデューサーの相内さんどうですか?
相内:そうですね、発信する側と受講する側の両方に問題があると思っていて、受講する側は「自分はそこで何を持って帰ろうと思って受けにきているのか」という明確な目的意識みたいなものがすごい弱いと思うんですよ。開催する側は開催する側でまあ、鶏と卵みたいになるかと思うねんけど「こういうワークショップでこういうのを持って帰ってほしい」とか「持って帰れるように創ってるつもりです」という明確な打ち出しもあまりできてない。双方に明確な目的意識みたいなもの、「ワークショップを創る上で」とか「受ける上で」みたいなものがまだ出来てないような気がして。ただその「ワークショップ」というなんだかよくわからない言葉だけが氾濫していってるような状態になってるんやないかなあと思っています。
百瀬:そうですね。現状の問題点みたいなところが今話に出てると思うんですけど、では、そこでどうしていくかという話を、色々やろうと手を拡げると出来ないので、今回具体的に僕らがやる場合、まずどこを、どこだけはやれると考えられますかね?
田中:自分がそういうタイプというのもあるし、今自分がおかれてる状況がそうだということもあるかなと思うんだけど、自分は最近「ありあわせ」っていうのがすごく好きなんですよ。もともと貧乏だし(笑)。好きっていうか、注目してるんです。自分にとって必然なんです。ありあわせっていうのがね。で、まわりくどい話になっちゃうけど、昔から、目の前にあるもので何かするのが好きなんです。もうこれは子供の頃から。う〜んとそこに、なんていうのかな、お中元で貰った包装紙とかに、なんかカットしてコラージュしてびゃびゃびゃっとなんかしたりとか。そこにあったからびゃびゃびゃっとなんかするってのはすごく好きで、こんなもの創りたいからって買いに行くことはあんまり子供の頃からしてなくて、親からスケッチブックと色鉛筆渡されたら、もうスケッチブックを全部埋めていく、みたいな。で、終わったら終わったで「はぁ」みたいなところがあって。またもう一冊買ってって言うような感じじゃないっていうか。じゃあ、目の前にあるのなんだろう?みたいなところがあって。三つ子の魂なのか。で、ある時期はすごく自分が求めるものを創りたくってこう、材料なりなんなり状況なりを採取して創って行くっていう時期もあったんですけど、やっぱり最近またそこに戻って来ていて「あり合わせ」という・・・。言葉の響きがよくないかもしれないけど好きなんですよね。好きっていうか必然なんですよね。というのは、関西の演劇状況だったりとか、財政だったりとか、実際昔から舞台やってる人はお金が無いってすごく言われているし、ただ無いのに稽古とバイトの比率がおかしいとか、バイトが入ってるんで稽古いけませんとか、なんのこっちゃわからん本末転倒なことが起きたり。で、やっぱり僕とか衣裳とかやってるとそういう事があるんですよね。「予算これだけしかないんです」ってプロデューサーは言ってる。ディレクターである演出家は「ここはもう全部豪華なドレスがいいんです」みたいな。そこはちょっとそちらで擦り合わせてからこっち投げてくれないかなあ、という(笑)。その間に立ってる技術的に物を創る人間っていうのが結局数字と技術の事を擦り合わせていくという。しわ寄せが結局クリエーターに来てるという状況があって、それは例えば演劇を創ってる俳優であってもスタッフであっても一緒だと思うんですよ。だから、しわ寄せが俳優にいってることがあって、僕はその作品を創るプロデューサーが、制作をする人間が健全な、って言ったら変だけど、帳尻の合う、筋の通ったというか、組立った制作をしてきていないという状況を今仕事をしてきて感じてるんですよ。なので、あり合わせるしか無いっていうところがある。それは必然だとおもうんですよ。お金が無いからなんとか集めるっていうんじゃなくて、無いなりにやる、無いなりにつくる。「無い」という状況は隠しちゃいけないと思うんですよ。お金が無い中で創ったというのはすごく重要な作品の一部だと考えているんですね。なので、最近はその「あり合わせる」っていうことが作品の重要なポイントだと思ってるんです。で、今回に関して、そのお金お金って言ってるのは、お金がないということではなくて、現状を材料にしたいと僕は今思うわけ。同じ発想でね。というのは、やはり天川に行くっていうこと、かつ一週間であるということ、日程を空けずにそのまま劇場に来てしまうってこと。そういうこと全部が作品の核になると思うんです。それは作品をみて、それがみえてこなきゃいけないというぐらいの勢いのものです。作品の裏にある状況ではなくて、それが作品の材料にならなきゃいけないんじゃないかなあと思ってるわけです。
百瀬:つまり、秀彦君が今言った「今あるものでやる」っていうことは、良いところだけみるということじゃなく、良いところも悪いところもすべて自分のおかれてる現状を無視しないでやるっていうことじゃない?
田中:うん、そう。
百瀬:そうじゃないとだめだよね、やっぱり。
田中:なんか風邪なのに出勤されてる不愉快さみたいな(笑)あんたは病気なんだよみたいな。なんかそういう・・・なんだろ現状把握。そうだな現状把握っていう4文字が一番近いのかもしれない。その生き様っていうのが現状把握にでるっていうか。状況が作品にでるっていうか。それがその世界をみるっていうことだったり、社会をみるっていうことだったり、自分をみるっていうことだったり、他者と向き合うっていうことだったりっていうことの重要ポイントだっていう感じが最近は強い。明らかに認めるっていって「あきらめる」っていうんだって(笑)
百瀬:あ、そうなんだ(笑)
田中:これ気に入ってんの。
百瀬:それ、いいね。
田中:うん。
相内:(笑)
百瀬:だから、僕はその「現状を無視しない」という視線がね、かなり徹底したリアリストっていう感じがするわけ。そういう面が曖昧だからみんな悲惨な状況になっていたりするのじゃないかと。お金もないし、クオリティもあがっていかないとか。だから今回はそこを打破する何かのきっかけが創れればいいなあと思うんです。
あり合わせるしか無い
百瀬 : 先ほど「天川」っていう話が出たんで遅ればせながら今回の企画を説明をすると、一週間のうち5日間ぐらい天川に籠って作品を作り、そのまま下山して劇場で公演する、っていう企画なんです。僕は、劇場っていうのはどうしてもいれないといけないと思ったんですよ。それは何故かというと、やはり劇場って特殊な空間なんですね。そもそも劇場は舞台作品を創る為に設備や空間が変わって来た場所なわけで、そこを使わないのは、使えないんだって言うのと等しいのではないかと。
田中:うんうん
百瀬:「使わない」のか「使えない」のか、どっちかわからないみたいな人が多くて。だから、劇場という特殊なテクノロジーを使うというところからは逃げない方が良い気がするんです。これは劇場という空間がテクノロジーだっていう考えが根本にあるんですけど、その辺は劇場サイドとしてはどうですかね?
相内:「特別な場所」である必要はあるとは思いますよね。実際そういう場でありえてるか、自分の劇場がそういう場でありえているかという部分もあるねんけど。回り道な話になるかもしれないねんけど、うちの話をすると、in→dependent theatreという場がどういう場であるべきなのかっていう、結構分岐点に来てる気がしているのよ。
田中:おお、それ面白そう!
相内:観客に物を観せる場なのか、物が創られる場なのか。この二つの間には、本当は両方を兼ね備えなきゃいけないのかもしれないんやけど、実はものすごく大きな開きがあることやと思うんよね。で、今その二つのどっちに軸をおくべきなのか、みたいなことがありつつ、いろいろ考えるんだけど、やっぱり僕はin→dependent theatreに関しては物を創る場であると思っていて、観せる機能はもちろん必要なんやけれども、そっちに寄って行くんじゃなくて、やっぱり作品が創られて行く場として、クリエーターにとってどういう場なのかということを一番考えないといけないんじゃないかなあと思っています。そこから離れてしまうと、たぶんうちのような弱小劇場は必要がない場になるんじゃないかなという気がちょっとしていてですね。それは観客にとって都合のいい劇場が今増えて来てるという大阪の現状ということもあったりするんですけど。
田中:都合のいい?
相内:観客にとって適している劇場ていうのがあるわけじゃないですか。観客の事考えたらこっちの方がいいかもという、場所もとか。
田中:なるほどね。
相内:だぶんうちだけに限らず劇場っていうものが単独で成立、単独で本当にそこしかないねんっていうとこなら別やけど、大阪にしても東京にしてもあるいはもちょっと地方都市にいっても選択肢はいくつかあるうちで、他とそれぞれ棲み分けしてる現状の中で、これは考えていかなきゃいけないと思うのね。その地域の特性とその劇場でどうやって作品が創られて行くのかっていうことをたぶん抜きにして考えちゃうと劇場っていう場は成立しなくなっちゃうんじゃないかな、ということを今考えてたりするところで、そういう意味でも今回は創るのに劇場でずっと創る訳でもなく、天川だけでやっていたパターンとも違うから、そこが面白い形にちゃんと創り手にとってもお客さんにとっても、価値ある形になるといいなという気がします。
田中:観せる事と創る事って今相内さんからでて、すごい的を得てるなと思ったんですけど、逆にいうと、一番その現場に同席してる相内さんがそう感じるっていうのは、創る事が観せることになってないっていう現状なんだと思うんですよ。
相内:確かにそう。
田中:本当は創ってるところをそのなんていうの・・・ワークインプログレスがちゃんとショーにイコールになってる状態っていうのが望ましいと思うんですよ。例えば再演を繰り返してどんどん良くなって行く作品とかがあってもおかしくないし、例えば工房として、劇場が使われて作品が創られていく状況があってもおかしくない。最近、企画とかで1週間2週間劇場使ってラスト数日が本番みたいなこととかあるじゃないですか。なんかスゴい有意義だ、とかリッチだとか有り難いとかって言いながら、やってることは舞台組んでやってるだけで・・・。会議室や○○会館で稽古してるのとあんまり色変わらなく・・・。現場で顔をあわせて、皆で寝泊まりはせずとも宿を共にしてる有意義さみたいなのがそんなにないっていうか、それならistでワークショップやってた時の方が全然取っ組み合ってたっていうか、ちゃんとブラッシュアップされていっているものがちゃんと作品に影響されていってたわけじゃない?それって「創る」ってことだし、それが「観せる」ことでもあるし、そこに例えば見学者とか、知り合いの人がちょこちょこ来たりとか、なんか蚊帳の外からなんだけどちゃんと意見言ったりとか。あーなるほどねってみんなで聞いて、またそれがうまいことまわっていったりとか、つまづいたりとか。そういう現状がないってことなんでしょうね。
相内:そうでしょうね。
田中:昔からすごく好きなんです、そういう状態っていうのは。個人的なことなのかもしれないんですけど、すごく好きですね。かといって、なんかテントで鍋つきつけあって、お泊まりしたいというわけじゃないんですけどね(笑)。
相内百瀬:笑
田中:いるじゃないですか、なんかこう文化祭が好きな人って。
相内:あー
百瀬:うん
田中:文化祭の好きな演出家とかいて、なんか明日も10時からね、みたいな感じでね。別に袖振り合いたいわけじゃない。
相内百瀬:笑
田中:そういう温度差を僕個人は感じてますね。え、でも2ndってそういうことが可能な空間だと思うんですよ。
相内:そうやと思うねんけどな。そうあるべき空間やと思うねんな。そこはだからなんていうのかな、変な話、だからHEPとかABCとかっていう劇場とは違うのはそこやと思う。
田中:うん。
相内:そうじゃないと、差別化出来ないと思うし。
田中:そうそう、だからファクトリーとベッドとシアターっていうのが共存してる空間っていうのは関西でも唯一だと思うのよね。
相内:そういう場としてうちも提供して行きたいと思うし、使ってもらいたいと思うねんけど、なかなかそういう意識を持って使うところはないよね。すごい残念な気はする。
田中:もったいないよね。
百瀬:まあ作り手側からすると、劇場は箱だけあったってしょうがないんで、そこにいる人間とセットで劇場なんだよね。相内君のインディペンデントに限っていうと、ここは一応貸し館なんだけど、そういう意味ではここは劇場だと思っていてね。ほとんどNOっていわないでしょ(笑)。
相内:(笑)あきらかに。
百瀬:僕が今のところNOっていわれたのは、2ndにコンクリ敷きたいって言った時だけで、それ以外はNOっていわれたことないんで(笑)。だから、基本的に何するにも協力っていうか、創作に関しては協力的なところがやっぱりいいわけであって。
田中:そうだよねえ
百瀬:と思ってるんだけどね
相内:ものを創る場だと思ってるからね。
田中:一緒に創ってく。
相内:ただ貸す場じゃないからね。
田中:劇場ってていう話が出たとき、劇場そのものも劇団だったり、一人の作家だったり、一人のパフォーマーだったりっていうのは、その地域に対して属するものだと思うんですよ。それに反して、というか対照的にノマドがいたりとか、バックパックで世界中旅しながらジャグリングやってるような人がいたりとかキャラバン隊があったりとか、そのなんていうのかな、その土、土との関係っていうか、その足の裏がついてる地面との関係って絶対誰しも人間ある訳で、どこに立ってるかっていうこととか、その半径っていう話だけど、劇場もやっぱりその半径があって、どこに立ってて、半径どれくらいの地域に対して意味と意義と影響力を持つのかっていうことってすごく大事だと思うんだけど。もともと遡っていくと、最近すごく思うんです。土を盛ったら劇場だと思うんですよ。
百瀬:うん。
田中:例えば、イタコだったりとか雨乞いだったりとか踊り子だったり。すごく根源的なものでいうと、たぶんお酒だったり薬草だったり。あるいは、ちょっとハイテンションなヤツがいて、そいつがこうなんかしようと思うんだけど一人でやってる状態ではなく、何かしらの干渉をするという状態を創るためには、地面にラインを引いて自分のいわゆるアクティングエリアみたいなものを明確にするか、あるいは土を盛るかだと思うんですよ。ちょっと地面をあげて土を盛るとそこはたとえば土俵だったりとか、舞台に成る訳ですよね。アクティングエリアっていうものを人間が意識する瞬間ってあると思うんですよ。それが劇場だと思うのね。なんだけど舞台に立ってるのに土も盛ってないし線も引いてない人がいる。
百瀬:(笑)それ痛烈なる批判だね
相内:すっごい批判やね
田中:あ、ほんと?
相内:そういう俳優とか演出家がおると(笑)
田中:あ、そう?自分・・・ごめん・・・あ、そう?
相内:わかるよ(笑)
田中:でも、本当に大事なポイントだと思っていて、どこに立ってるのかっていうのは意識はしたいですね。創る時もですけど。あの、どこに立ってて、どこでそれがみせれてるというのがすごく重要で。さっき言っていたのと繋がるのですけど、天川から日本橋に持って来るっていうことがすごく大事なポイントになると思う。
坂口安吾
百瀬:今の話から、僕は秀彦君の人となり、というか何かが見えてきたと思うんですよ。やはり、徹底的にリアリストなんですよね。まだ、決定ではないのですが、一応作品は安吾でどうですかっていう話を最初に持っていったんです。それは、一つ最近安吾のことを調べていて、秀彦君と重なるところが結構あるなと思っていて・・・。
田中:あ、そう?
百瀬:それはなんでかっていうと、あの人ほらなんていうのかな・・・
田中:堕落してるから?(笑)
百瀬:いや、『堕落論』自体も、ある種、良いとこだけみて生きてくな、というところがちゃんとあるじゃない?つまり、すごくリアリストなのよ。「そこから目を背けてどうすんだ」というところがあって、それは作品にも如実にでていると思う。西洋への見方についても、合理主義に傾くわけじゃないんだけど、日本人の曖昧なところは許さない、という姿勢でね。そこがすごく秀彦君とかぶるなと思っていて(笑)。
田中:でも自分自身はたぶん安吾もそうだと思うんですけど、リアリストだっていわれたのはすごく珍しいし、ある意味ちょっとなんだか照れくさいところがあるんですね。逆に自分はすごくロマンチストだと思っていて、結構そういわれる事も多いんです。なので、リアリストだっていわれたのはすごく照れくさいし、なんか恥ずかしいけどちょっと、いいかなあみたいな。
相内百瀬:笑
田中:でも昔から本当に安吾はすきで。それは別にあのーなんだろう「うるせいやつらが好き!」っていうのと同じ感じで好きなの。
百瀬:(笑)ああ、そうなのね。
田中:要はいつかやってみたいなとか。いやあ、すばらしいなあ、とかそういう感じじゃなくて、なんか本棚にあるとほっとするとか、なんかちょっとぴゃっと手に取って眠れへん時にぴゃぴゃぴゃってまた読んじゃうとか。え、あもう安吾ったらーって思ってびゃって寝るみたいな。すごく共感に近い読み方をしてたっていうのは事実なので、ちょっとびっくりしました。
百瀬:いや、なんかね。さっき天川からこっち側にくることも作品に取り込むっていうことは、それをつまり普通だったら見えないとこに押し込めてしまいがちのところなんだけど、そこもちゃんとその事実として見逃さないわけじゃない?そういうところに似たような感じを持ったんですよ、僕は。
田中:で・・あの、「桜の森」やろうかなと思ってるんですよ。
百瀬:あ、いいんじゃないですかね。
田中:すっごく迷っていろいろ他にも旅をしたんですけど。やっぱりね、自分にとって重要だったのはまずその、言い出しっぺの百瀬君がまず安吾を出してきてた、というのが自分にとってはやっぱり大事な現状の条件っていうか、現状だったんですね。そこにはやっぱり必然があったのかなあっていうのがみえてきて。ちょうど今年、引っ越し連絡のはがきに「桜の森」の文章をプリントして、送ったっていう事もあったんですよ。偶然なんですけど。昔からその文章が好きで、ことあるごとに引用したりとかしてるんです。あと、自分がすごく好きな叔父の僧侶から聞いた短歌があってね。それが「年毎に 咲くや吉野の桜花 木を割りて見よ 花の在りかを」っていうもので、ほんとに吉野の桜のことを語ってるんですけど、まあ、きれいけど割ってみてもわからんやんかっていう歌なんですよね。そこに天川に繋がる何かがあるかなあと思っていて、向こうの土とか樹木とかを持って来るっていうことがしたいなと思ったんですよ。
百瀬 :実を言うと、秀彦君はリアリストだっていう話は今日思ったんですね。元々の話は、最近「面白い」とかって言う言葉が大氾濫していてね。それで思いのほか会話が落ち着いちゃってることが多いじゃないですか。
田中:多いね
百瀬:この不可思議な状況はどうなってるんだろうって思っていて。なにが「面白い」んだろうとか、そういうことにもならずに、「あれ面白い?」「うん、面白かった」で、それで「何が?」みたいなことになっていかないところが、みんな同じであるはずがないんだけど、なんか直ぐ了解して落ち着いてるところがあって、演劇界なんかは特に、芝居を観てどうだったっていうことも、「面白かった」っていう言葉でお互い了解しあっちゃったりする。落ち着いちゃったりすることがあるので、すごく閉鎖的な事になってきてはいまいか、と。そこにすごく危機感であるんですよ、僕としてはね。だからそういうのも壊れていったらいいなあって思っていたんです。たぶん坂口安吾がいたとしたら、そこで納得できないんですよ、きっと(笑)。「面白い」っていうことだけじゃ納得出来ないんだと思うんですよね。
田中:うんうんうん。
百瀬:ただ、ただ単に合理的にさ、じゃあどれを意味するんだ、とか西洋人みたいな事をいうんじゃなくて、坂口安吾は最終的に「でもなんとなく惹かれちゃうんだよね」っていうこともちゃんと信じてるでしょ。だからそこが、ちょっと違うなと思うところなのよね。そこが秀彦君とすごく似てるなってところで、「でもなんか面白いと思うの」って言えてしまう。その能力というか力も無視しないというところが、特異な作家だなと思っていて。
田中:いいんだよ、いいんだよ、面白いんだよ。みたいなさ
百瀬:そうそうそう(笑)。最終的にはね、そこまでいくんですよ。
WHYとBECAUSEが本当に不在だと思うんです
田中:最近語った事があって。要は、日本人って議論しないよね。
百瀬:うん
田中:さっきもでた「袖振り合う」じゃないけど、なんでこう日本は共感を求めるのか?っていう話をした時に、「狭いからじゃない?」っていう話に・・(笑)。いや、これ冗談ぬきでね、一回、京都の話になって、京都人の話になった時に、京都人て裏で何考えてるかわかんないって、言われるんですよね。怖いっていうか「どうも」って言って、裏で悪口言ったりとか。例えば、文化的にも、お茶漬けをだしたら帰るとか。帰ってくれとは言わない。ほうきを逆にたててると望まざる客「歓迎してない」という意味になるとか。面と向っては言わない。知り合いの子なんて、子供時代に「ぼんどこから来はりましたん?」っていわれて「嵐山」っていったら、「ああ、昔あそこのお百姓さんがよく肥くみに来はりましたわ」って言われたりとか(笑)。「今度引っ越すんだ」って言って、「どこに?」って聞かれて「伏見」っていうたら「ああ、あそこは東山が西に見えるらしいどすな」って言われたって。あの、要は〜京区って、京が付かない区は都じゃないっていうのがあったりとか。それはなんでなんだってことになった時に、別にただいけずなんじゃなくて、それが人がひしめき合って生きて行くための処方箋だったんだと。都のね。要はいちいち自分の嫌なとこ、嫌だっていうことをアピールしてるときりがないと。江戸は喧嘩の華っていって逆に出して来たんだと思うんだけど。京都の考え、都の考え方ではそうではなくって、出さない。だからうるさいなって言う子がいると、「元気なお子さんどすな」っていう。気づかないと、「あ、都の人ちゃいますな」っていう。都で生きているというステータスも一つとしてはっきりと言わない。それは面白いなって思って、自分の性格上発想がないから。自分はなんか驚いて、日本の縮図的なものを感じたんですよ。「袖振り合うも多少の縁」っていう言葉も最近はすごく面白いなあと思っていて。何かっていったら、袖が触れ合うんですよ。それさあ、アメリカ開拓時には無いと思うの。
百瀬:(笑)単に広さでね。
田中:そうだと思う。ほんと、狭いって言う事を、その袖が触れ合うってことばで表現してるって面白いなと思って。要は人口密度をそこで表現しちゃってるし、その一人に与えられているというか許可されている移動自由面積の狭さていうのが表現されてると思うのね。で、ほらウエスタンとかで「バンッ」と入っていって、「どこのもんだ」みたいな感じってのはないわけじゃない?一生会わないかもしれないしさ、でもそんなことなくて、もしかしたら会うかもしれないというのがやっぱりどこかにあって、なんかちょっと会った人にでも良い顔するんだよね。そこがなんかこう「いいよね、いいよね、そうだよね」っていう共感をするという防御本能が働いてるんじゃないかなと思うんですよ。それで「面白い」だったり、「超なんとか」とか、「良かった」とかという言葉とか。要は、良い顔をするっていうのは一つの都市の処方箋なんじゃないかなと思っていて。僕はその百瀬君が危機っていってるのもわかるんだけど、客観的に、こういうところがリアリストっていわれる所以なのかな?みんな前向きに生きてる結果そうなってるんだなっていうことを先に感じましたね。自分は嫌なんだけど、現象としてはそうなのかなって。
百瀬:今の話を聞いて思うのは、それはそうなんだけど、「袖振り合う」っていう風に言ったでしょ?「袖振り合う」っていう、つまりその状況を「袖振り合う」って言うのは、ある種の表現じゃない?そういう風に言ってるってとこに一つの現状をこういう風に捉えたという「表現」になっているんだけど、「面白い」っていうのは表現になってないでしょ。それはただ単に記号として言葉を使ってるだけの話だからさ、そこにはやっぱり趣がないんだよね。
田中:趣はないよね
百瀬:だから、それはちょっと単粗化されすぎじゃないかという気がする。少なくとも、「面白い」って言う事に関しても違う言い方であったりとかさ。だから袖振り合うって最初に言った人もその意味内容を伝えるだけじゃなくて、その使い方にすら若干おしゃれであったとか、なんかあったはずだよ、それは。
田中:「面白い」って言葉を使ってる、「面白い」って言う言葉そのものじゃなくてさ、なんていうの、共感をするという防御本能のことね。つまり共感をしようとする方が働いちゃってると思うわけ、だからそこをさ、なんていうかな、把握していけば、なんていうかな、自分はさ共感を求めない人間だから。(笑)
相内・百瀬:笑
田中:かといって別に天の邪鬼なわけじゃないから、相手が言った事を常に否定する訳じゃない。ま、そういう人もいるんだよね。常に否定しちゃうっていうか、相手がAっていうからBっていってしまう人もいるんだけど。なんか一番嫌いなのはそういうタイプで・・。
相内百瀬:笑
田中:あの、多いのはやっぱり常にAって言うっていう感じもあるよね。AだよねAだよねっていうことで安心感をもつ。だからただその防御本能っていうのは働いてるなと思うわけ。そうすると、ただ面白いっていうだけじゃなくて、もう一歩突っ込んでみたらっていう方法論じゃない対話が生まれてく方向があるんじゃないかなって思うんだよね。自分も学校とかで授業とかで、やっぱり感想をどうぞっていうと皆「面白い」とか「すごい」とか「びっくりした」っていうほんとに借りもの言葉しか使わないのね。ただ、つっこむと何かあるのは確実。問題は突っ込めないんですよね自分で。自分で自分を掘りさげることを知らない。だからWHYとBECAUSEが本当に不在だと思うんですよ。「面白い」っていう言葉に、他に表現する言葉がないかといったら、ある。それを引き出す方法論が欠如してるっていうのは確かで、自分で自分自身にWHYをなげかけて、そこからBECAUSEを引き出す事ができない。
百瀬:そこは難しいとこですね。
相内:あるはずなんよね、その「面白い」っていうのに至った何かは。それを表現する手段を持ってないんよね。
田中:そうそう、会話をしてると出て来るのよ。「えーうそー私はこっちが好きやなあ」とか。あ、そうなんだっていう。
相内:そうですよね、聞いたらね。そう、そうなんや、そこまで考えて一応みてたんや、みたいなことはある。
田中:自己分析の問題なのかなっていう感じなのかな。
相内:難しいよね、そこを逆に他人が全て何もかもアプローチして、それを引き出してあげないといけないのかっていうと、それもちょっと違うわけじゃないですか。
I FEELなんやねん
田中:でもさ、百瀬君とか感じない?たまにこう、みんなで一気に面白いって思った時とかあるじゃない。
百瀬:うん
田中:やっぱ、面白いのよ。それって何だと思う?
百瀬:それはつまり、たぶん好きぶ好きの問題じゃないレベルでも「面白い」というものはあって、そもそも「面白い」ってすごく広いから、良いとか悪いとかも含まれちゃうんだけど、やっぱり「面白い」って、つまり他と並べたくないところがあるじゃない。そういうものに一緒に出会う事は往々にしてあり得ると思うわけ俺は。だからそこが混乱するんだよね。だからなんていうのかな・・・
相内:好きじゃないけど、すごいなと思うものもあるわけよね。
百瀬:うん、それは当然ある。
相内:それも下手すると「面白い」だけで処理されてしまうわけでしょ
百瀬:そう、だからすごい大雑把になっちゃうのよ。
相内:何か惹かれる何かがあるってことだよね。
田中:自分が惹かれたっていうことが言葉にできないんだと思う。
相内:そうね、それをなんかとりあえず簡略化して「面白い」って言っちゃうわけね。
田中:そう。
百瀬:いや、だからそれも、今こういう対話で「それどんなとこが?なんで?」って言ったら出て来る問題なわけでしょ。なんとかして伝えようと思ったりして言葉を重ねてったりとかするってことで何かが生み出されたりするわけだと思うんだけど、そこがなくて、最初に「へえーそれいいね、私も観たい」で終わっちゃうと先に進まない(笑)。そういうことなのよ、俺が言ってるのはさ。
田中:面白いってたぶん英語に直すとI FEELだよ。
百瀬:その程度でしょ。
田中:I FEELなんやねんっていう。
百瀬:うん
田中:WHAT DO YOU FEEL?みたいな
百瀬:(笑)そうね。
田中:I FEEL I FEELって言ってるだけで(笑)、具体的に突っ込んでいってないことになる。
百瀬:曖昧なんだと思うんだ、気持ち悪いもんなわけ。つまり根本的に日本語自体がそういうものだと思っていて、その曖昧模糊とした物を使うんだっていう意識がないと、やっぱり曖昧なままで終わっちゃう気がするわけ。
田中:でも、みんな母国語のこと曖昧だって思ってるんじゃない?
百瀬:いや日本語は特質的に「面白い」。自分を表す言葉だって、英語だったらI,my, me, mineぐらいしかなかったとしても、日本語は「あちき」って言ったって「おいどん」って言ったって何言ったっていいわけだからさ。そういう意味では選択肢だってものすごくあるわけでしょ。さらに平仮名も漢字も混ぜこぜでカタカナも入ってるなんてのはないよ、他には。
田中:世界的に、かなり難易度の高い言語だと言われてて
百瀬:そう、ちゃらんぽらんだよ。ちゃらんぽらん(笑)。
田中:ちゃらんぽらん(笑)
相内・百瀬:(笑)
田中:あのなんだっけ舟歌あるやんか八代亜紀の。あれを英訳で歌った事があるらしくって。
百瀬:うん
田中:でも「しみじみ飲んで〜しみじみと〜」っていうのの、「しみじみ」だけは訳せなくて困ったんだって。
相内・百瀬:へえ。
田中:最終的にshimijimilyになってんやって(笑)
相内百瀬:(笑)
相内:形容詞、新しい形容詞や
百瀬:それはすごい、それはいい。
田中:shimijimily。
百瀬:だからもう常に不可能なんだよね。それって、もう。
田中:そうだよなあ。
百瀬:伝えてく事が不可能なんだよ。
安吾はすごく許しを感じるところがいい
田中:あ、そうそれでこの作品にも繋がってくるんだけど、今ちょっと思い出したんだけどね。自分のファイバーアートの先生がずっと言ってた事で感銘を受けたってことがあって、日本人の独自性みたいなもの、日本の土着的なその身体に与えてるものってのはなんなんだろうっていうことをすごく考えるんだけど、それこそ体重の重さだったりとか、身体表現における体重の重さだったりとか、ゆっくりとか、間とかっていうことあるじゃないですか。わびさびとか。でなんかあの、二つあるんですけど言っちゃっていいですか?
百瀬:どうぞどうぞ
田中:一つはね、ある有名な指揮者がね、ヨーロッパの音楽院で佐渡裕か誰かが、一人日本人クラスの中におる時に、指揮者のクラスでちょっと前に出されたんだって。そこで、握手をしようって、指揮者が皆の前で日本人に握手を迫ったんだそうで。握手をして、次に極力ゆっくり握手をしてくれって言われたんですって。で、超スローモーションで数分かけてやっと握手をしたわけですよ。すると、日本人というのはこういうのを持ってるんだ、っていったのが最初のレッスンだったんだって。要は、そのヨーロッパ的なるものとか西洋的なるものには堪えきれないっていうものがあるわけですよね。日本人って言うのは「ゆっくり」っていうのを「間」にできるんだっていう。その「間」っていうものが存在するんだよっていうことが面白いなと思ったんですよね。もう一つは、日本人て言うのはこう手で見て、目で触る事ができるんだ、っていうのよ。素材を手で触って「あ、涼しい」って言うと。手で触って「鮮やかだ」って言ったり、目で見て「涼しげ」だとか「軽い」って言ったり、軽みがある帯だとか、陶器を目で見て「あったかいお茶碗ですね」って言うと。今度触ってから「わあ、この柄がなんとも」って言う。この目で見るべき事を手で見て、手で触るべきものを目で触るっていう。触る事が出来るのが日本人だと。イギリス人がウェッジウッドのティーカップみて「IT'S HOT」っていわへんと。
相内:笑
田中:だから出て来るのは「BEAUTIFUL」。目で見るでしょ。それがすべてで、その刺繍の鮮やかさだったりとか、手で触って、まあ、素晴らしいって。そこが入れ替わるのが面白いって聞いた時に、すごい着眼点だなと思ったのね。そういうものを自分なんかライブの空間でも追いかけて来てるし、追いかけたいなと思ってるんですよ。
相内:季節感のこともあるし、なんかその、空気感みたいなものを色とかで表現したり出来るとかっていうのも日本人の特色やなあって気がしますね。
田中:それこそ俳句とかでも、風を見るのは日本人かなって思います。すごく土着的なものがある。
百瀬:これどう思います?かなり非合理的なことが言われたりとか、感覚であったりとか、っていうことがよく日本の特色としていわれたりするじゃないですか。でね、面白いのが、キリシタンが入って来た時に宣教師達はものすごく明確に、ある種合理的・科学的にものを言うわけじゃない?で、仏教の坊さんがそっちにどんどん惹かれちゃって結構キリシタンに改宗してくと。つまり合理主義の側から「無はただの無だよ」って言われちゃったら、もうそれに答えられないっていうことが起こったと。で、ある種の曖昧さに我慢出来ずにそちらに流れてしまうわけだけど。そうじゃなくなんかあるじゃない「曖昧さ」にも絶対にさ。
田中:うん
百瀬:そこがねえ、坂口安吾だと俺は思ってるわけよ。
田中:そこに来るわけ
百瀬:そこで、ただ流されてるわけじゃないんだよね。合理主義だって無視してないんだ。だからそこの、今の話がもの凄く通ずるなと俺は思ったんだよね。
田中:やっぱり触感を大事にしてるとこはすごくあるよね。すごく個人的な触感を大事にしてる。だからすごいロマンチストに感じるんですよね。僕は。
百瀬:でも、ただ単にロマンチストだけだったら、読んでられない。
田中:うん。
百瀬:そうじゃないところはどこから来てるのか?
田中:最終的にロマンがあるっていうか、許しがある。
百瀬:うん
田中:最終的に許してる。だから結局人間への視線のことなんですけど・・
百瀬:そう、「人間」ってよく言うよね、安吾は。
田中:やっぱり大まかに分けて、人を許してるか許してないかってすごくわかれるって思っていて。二元論なんですけど、徹底して許してない人と、最終的に許しが残る人と両極端に好きな人がいるんですよ。「こいつやっぱり許せないんだなあ」っていう人とか。安吾はすごく許しを感じるところがいいですね。
「下山」っていいなあ
田中:前、僕がいってたのは、その、ワークショップがあってそこに公演があってていうことはおもむろに出してほしいっていうことは言ったじゃないですか。ちゃんと最終的には公演があるんだぞという、これは創作なんだっていうことをすごい出してほしいって、でねもう一つ出してほしいのが下山っていう言葉。
百瀬:下山ね、下山するっていう。(笑)
相内:(笑)
田中:百瀬君が普通に企画書で、「何日、ここで下山、で仕込み」ってあって、演劇のプロジェクトで「下山」って。
相内百瀬:笑
田中:どこに連れてかれんねんみたいな。でもすごくなんていうのかな惹かれたんですよね。「下山」っていいなあって。で下山って言うのが大事なポイントになって来る気がする。明日は下山ですみたいな。
百瀬:わかりました(笑)
田中:要はね、「山に籠る」っていうこと「自然の環境の中でやる」っていうことを今回は重要なポイントにしたいし、ただ「山の環境で創ると違うよね」っていうことにはしたくなくって、そこにいるその場所であることは最大限に有効活用したいって思って、そこの自然のものを持って来るっていうことを考えたくって、土なり木なり樹木なりっていうもので、ちょっと作り物をしたりできたらいいなあと。その辺の木とか使って楽器とか創りたいなと思って。鳴りものとか、土を通じてこう桜の木を持って来ちゃうっていう感覚というか。「桜の森の満開の下」っていう言葉自体が、僕はもう英訳できないものだと思うんですよ。デーブスペクターでも分かりにく感覚だと思うんです。
百瀬:(笑)
田中:「桜の森の満開の下」って聞いただけで、なんらかのさあ、神秘性ってもう一気に入って来るじゃない。たぶんこの国内に住んでる人の多くはね。で、お花見が未だにこう健在なのもそうだし、夜にこれだけ見る木もないと思うんですよね。好んで見る木は。夜桜っていうあの感覚って言うのがすでに言葉の中に集約されてて、このタイトル聞いただけで「ぐって入って来る、あの感じ」みたいなものって、団体っていうか観客という客席というおんなじ共存している人間が、共有しているコードだと思うので、それはフル活用しないといけないなと思ってるんです。そういう意味では「下山」っていう言葉は大事。
百瀬:(笑)わかった入れます。重要な物として。
田中:ワークショップ・下山・公演。ほんとにこの三つのポイントで構成されてると思う。

信者になっちゃう人じゃダメ
百瀬:では最後にですね、一応どんな方々に参加してもらいたいか、っていうことだけは伝えとこうかなあと思うんですけど。どうでしょう?
田中:僕、これ相内さんの意見が聞きたいんですよね。
相内:それは、ワークショップを受ける人っていうこと?
百瀬:そう受ける人ってこと。
相内:やっぱり最初に言った感じなんやけど、自覚的である人に参加してほしいなあと思うんですよね。なんか受け身ではなくて、単純にワークショップ来て、何かを与えてもらいにくるんじゃなくてその中から何かを掴もうという明確な意志をもってくる人じゃないとたぶん僕らがどんだけいろいろ考えたり、なんかやったりしても、たぶん体験コースになっちゃうと思うんですよ。登山して稽古して下山して発表会して楽しかったーになっちゃうんじゃないかなという気がして。変な話、何故こういうプログラムになっているのか、っていうところまで考えるような、考えるまではいかなくても、何でこんな変わったワークショップなんやろうみたいな意識ぐらいはせめて欲しいなと思います。
田中:相内さんからよく知ってるこの二人がさあ、なんかこういうことをしてるぞっていうときに客観的に見て、更に今の話を踏まえて、この二人にどういう人間がぶつかると、演劇関係者として意義深いのかなあ?要はキャスティングスタッフだとして。
相内:誰をふたりが使ったら面白いのかっていうことでしょ?
田中:個人名というかどういう人間をここにぶつけたいと思うか、この二人に。
相内:まあ、基本的に単純に持ってる方法論が違う人の方がいいと思う。ま、持ってるとまで言えるかどうかわからんねやけど。今迄歩いて来た道が違う人が面白いと思う。単純に感化されちゃう人じゃない方がいい気がする。秀彦君も百瀬君もそれぞれもってるものがあって、それは必ずしも同じ方向向いてるわけじゃないけど、それぞれが自分の中でやっぱり確固たる物を持っていて、それに触れて「あーそれがすごいな」って思っちゃって、それの信者になっちゃう人じゃダメだと思う。
田中:あー
相内:そうではなくて、自分が持ってる物の価値も考えて違う価値に触れて、じゃあその価値と、この価値をどうつなぎ合わせたら新しい物が創れるのやろうかって考える人というのが理想的だと思います。
田中:要は一方通行になっちゃうもんね。
相内:そうそう、そうなんですよ。
田中:かけ算にならないってことでしょ。
相内:かけ算とかにならないと単純な足し算だったりとかっていうのはちょっとつまらないかなっていう気がするんですよ。
田中:そうなんですよねー
相内:下手したら割り算になってもいいと思うんですよ。変な話。
相内百瀬:うんうん
相内:単純な足し算で終わってしまうよりは、あーちょっと割り算だなっていうぐらいが。あんまり完全に割れちゃうと困るけど
百瀬:笑
相内:ああ、割り算だけどその割り算になった理由とか、あ、こういうことで割り算の結果に成るんだっていう検証ができれば、単純な足し算で終わるよりは割り算で。まあ目指すのはかけ算なんだけど。割り算になる方が希少価値があるのかなと。
田中:そうだよねー・・・。まあ、どっちみち百瀬君も僕も分数だから割り算がちょっとやっかいなことになっちゃうけど。気がついたらたらかけ算になってるからさあ。
百瀬:笑
相内:ああ、なるほどね
田中:だから分数みたいな人がきたらいいなあ。
相内:という気がします。
百瀬:わかりました。じゃあ大体こんな方向で進めたいと思います。
(2009年4月6日)